「禅という名の日本丸」 山田 奨治

「禅という名の日本丸」
山田 奨治 (著) 2005/04 出版社: 弘文堂 単行本: 353ページ
No.4287★★★★★
「オイゲン・ヘリゲル小伝」 弓道による禅の追求(池沢幹彦 2018/04 東北大学出版会)にこの本の紹介が載っていたので参照してみた。ヘルゲル=ナチ党員、という説の調査においては、少なくとも日本語文献ではこの書に極まるであろう。
著者は1963年の工学系の研究者。この書においては、日本という摩訶不思議なものが、ゆがんだ鏡像にどのように映り、日本人はそれをどのように受け取るか、という情報学的な側面からまとめられている。
そのケースとして、「弓と禅」、そして竜安寺の石庭がまな板に載っている。なかなかの力作である。なるほどと思わされることしきり。ただし、読者としての情熱は、途中で切れた。私としては、ヘルゲル=ナチ党員、という図式が明瞭になればそれでいい。別段にだから批判するとか、信用しない、ということではなく、なにか隠されているようなのは嫌だ、というだけなのだ。
阿波研造の弓が、日本の弓道の中核から大きくはずれていたり、弓は必ずしも禅と関連して考えられる必要がない、としても、私は一向に差し支えない。もちろんヘルゲル=ナチ党員という図式も、いまは直ちにだから、という性急な文脈にはない。
そしてまた、日本における、日本人が考えている禅と、西洋に紹介されたZENに齟齬が数々ある、ということも、今は敢えて大きな問題にはならない。
そもそも、日本における禅が、これから人類をリードしていくZENの完成形であるかどうか、さだかではないではないか。
翻って考えてみれば、OSHO・ZENなどは、和尚や禅という文字からイメージする日本人の意識からは、かなり離れてしまっていると思われる。そして、OSHO・ZENのほうもまた、伝統的な和尚・禅などには、あまり拘泥していないように思われる。
例えば、一連の枡野俊明の「禅の庭」シリーズも、正直、なんだかなぁ、と思わざるを得ない。どこか受けに入っていて、本質的な部分が失われているように思う。
もちろん、この工学系の研究者である山田奨治なる方の視点も、面白いとは思うが、どこまでも肩入れしたくなる、というほどでもない。なぜだろう。
当ブログは現在、「迷の巻」を進行中である。つまり、迷いが、どこにあるのか、定かでなくなっているように思う。迷いがあればこそ解決があり、禅なり庭なりが、覚りという解を携えてくるに違いないのだ。
迷いなくして、禅なり庭なりを論じても、少なくとも当ブログにおいては「解」とは成り得ない。つきもせぬ百論を繰り返していればいいさ、と静かに立ち去ってしまうだけである。
仮に、日本の弓が解であったなら、なにもヘルゲルを論じる必要もなければ、ナチ云々を調べる必要もない。禅が解であったなら、その西洋的理解云々もまた、まったく不要な遠回りの議論となる。
当ブログにおいては、すでに日本の禅も、西洋のZENも、とりあえず解足り得ない、という認識の上にいる。弓や庭などは、さらに遠い事象たちである。
もっというなら、OSHO・ZENは解足りうるか、というのが、当ブログにおける、目下の重大テーマである。現在はもっとも近い位置にあるとは言えるのがOSHO・ZENである。それが立証されるには、わが「迷」がどこにあり、何がその「解」足りうるか、にかかっている。
庭だとか、弓だとかは、個人的には、もはやどうでもいい。禅でもZENでも、もうどうでもいいのだ。ただ我が「迷」の鍵穴にぴったりフィットするのは、何か。問題意識はすべてここにかかっている。
それにしても面白い本である。違った文脈でまたこの本と再会したい。要再読。
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