「芭蕉 最後の一句」 生命の流れに還る 魚住孝至
「芭蕉 最後の一句」 生命の流れに還る
魚住 孝至(著) 2011/09 筑摩書房 単行本: 309ページ
No.4280★★★★☆
テーマとしてはそうとうに面白い。当ブログとしては飛びつきたいようなタイトルである。芭蕉辞世の句と言えば、旅に病んで夢は枯野をかけ巡る、でしょう、と断定したくなる。一般にはそうであろう。しかし、著者はそうでない、という。
この句について、私も過去にメモしておいた。
10)今から、ちょうど40年前に、インドのプーナでOSHOの元でグループセッションを受けた。三日間の「エンライテンメント・インテンシィブ」というセッションである。ひたすら「私は誰か」を言語化し続ける。対面して座ったパートナーは、ひたすら、その話を受容し続ける。
11)単純な自己紹介に始まった一日目など、あっと言う間に過ぎ去り、二日目などは混とんとして、何が何やらわからなくなる。時にはフリークアウトしてしまう参加者もいないわけではない。
12)そして、三日目になると、何事かの終結がやってくる。三日目だ、もう終わる、という多少の安堵もある。そのタイミングで、なにかのひらめきが、どんと落ちてくる。
13)私の場合は、なぜか最後は芭蕉の一句が飛び出してきた。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 芭蕉の辞世の句である。なぜだったのか、知らない。私がそんな句を深く覚えていたなんて、知らなかった。愛しているとも知らなかった。だが、私は「私は誰か」の問いかけの最後の答えとして、この句を選んだ。日本語もわからない欧米人相手に、その意味を話しつづけていた。Bhavesh 2017/05/26
私にとっては大事なタイミングの大事な一句となっている。もしそこに変更があれば、これは重大な沽券にかかわる問題である。
著者は、この辞世の句は4日前の作であり、本当の最後の一句は、亡くなる直前に、以前の句を作り直した次の句であるという。
清滝や波に散り込む青松葉 芭蕉
「清滝」は、京都の西方にあり(都の町家のひとにとって嵯峨より向こうはあの世の世界であると言われている。山が西側から迫る中を、清流が流れている。p274
清滝は、あの世とこの世の境目である。青松葉(あおまつば)には、松尾芭蕉(まつおばしょう)の音がすべて入っているという。松葉を逆にしたから読めば芭蕉(ばしょう)となると。
なるほど。そして滝に落ちるのは黄色く枯れた松葉であり、青松葉がそのまま「散り込む」というのは、芭蕉の心意気を表している、と。
著者は1953年生まれ。私と同年配である。この方が2011年、あの3・11直後に発表したのがこの本だ。著者もまた最初1995年当時は、枯野が芭蕉の辞世の句であると思っていたらしいから、私がこれまで知らなかったのも、別段に恥ずかしいことだとは思わない。
しかし奥さんから教えてもらって、青松葉を調べ始めたらしいが、それはそれ、ちょっと深読みしすぎなのではないか、と思わないでもない。
基本、私は、これまでも芭蕉の辞世の句は、枯野でいいと思う。なぜなら、芭蕉は科学的に立証されなくてはならないものではないからだ。芭蕉はわが胸のうちに生きていればそれでいい。
であればこそ、奥の細道において、芭蕉は松島の句を残さなかったし、平泉の金色堂も参拝しなかった、という言い伝えにも信憑性がでてくる。芭蕉のわびさびから考えて、あまりいじくり回すのはどうなのだろう。曖昧なものは曖昧なままでいいのではないか。
自分はあの世に行っても、青い松葉のまま溶け込んでいくぞ、というより、迷っている芭蕉のほうが、わが心情に迫ってくるものがある。これでこそ芭蕉、と思う。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
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