「弓聖 阿波研造」 池沢幹彦
「弓聖 阿波研造」
池沢 幹彦 (著) 2013/08 東北大学出版会 単行本(ソフトカバー): 281ページ
No.4281★★★★★
「弓と禅」のオイゲン・ヘリゲルが弓のマスターとして師事したのが阿波研造であった。1880年、宮城県石巻地方に生まれた武道家である。あの書で展開されるストーリーがこの仙台の地であったことに改めて驚くとともに、リアリティを持って再認識するに至った。
ヘルゲルがレポートしている真夜中の指導、一矢が的に命中したあと、二矢がさらにその一矢を真っ二つにしたという出来事の他に、この本ではさらに驚くべきエピソードを披露している。
それはある時、道場に他流試合の上段者が現れ、くじ引きの末、阿波から弓を射ることになった。かねてからそのよそ者を尊敬していた阿波は、的の四隅を綺麗に射り、ど真ん中を空けておいたという。ど真ん中には、あなたの矢がふさわしいと。
その姿を見て、その他流試合者は、参った、と言ったとか、言わなかったとか。とにかく、それだけのことができた阿波研造であった。
弓に関する個人的なエピソードはこの他いろいろあるが、今回は、かつて10年前に書いた「弓道パーフェクトマスター」 基本技術から的中率を上げる極意まで!(村木恒夫 2009/10 新星出版社)のリンクだけ張り付けておく。
ヘルゲルはドイツに帰国したあと、ナチ党員になったという事実は、エーリック・フロムと鈴木大拙との絡みの中で紹介されている。
また弓禅一如の阿波研造の弓道に対しては、旧来の弓道の流れからすれば、禅に偏り過ぎて、弓そのものを軽くあしらっているのではないか、との批判も当然あったようである。
阿波研造のお墓(石巻門脇・称法寺)は、3・11災害で大きく被災して全国的に有名になってしまった、あの大川小学校の近くにあるらしいが、震災で流され、今は寺の境内に横倒しになっているという(この本の出版当時 2013)。
率直な意見を述べておけば、確かに一筋に何事かを極める姿は美しいし、達人とされる人には学ぶことが多く、賞賛されてしかるべきである。されど、世には一つ事を極めることもなく、達人などと呼ばれるはずもなく、賞賛など一切関係なく人生を送る人の方がはるかに多い。
しかるに、一等賞の人だけが光明を得るかのような錯覚や、二等賞以下の人々に嫉妬心を残してしまうような、禅ではあってはならない。善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、ともいうではないか。
天才なおもて往生をとぐ、いわんや凡人をや、と言い換えたい。
弓は弓として、武道として、スポーツとして、武術として存在していくだろう。されど、もしことが禅に及ぶなら、決して物事の優劣はなにごとかのコンテストのようなものであってはならない。そして、一部の達人にだけ依拠するようなものであってはならない。
わがOSHOサニヤシンは、ゾルバ・ザ・ブッダという人間像を持っている。すべてのものごとを楽しみ、さらに意識の高みを味わい尽くす。それはどの方々にも、どの道にも、なんの不都合もなくフィットする人間像であろう。
しかしまぁ、それにしても、阿波研造、偉大なり。わが郷土の士に、敬意をもって礼拝したい。
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