「禅宣言」 OSHO<20>
<19>からつづく
「禅宣言」<20>
OSHO /スワミ・アドヴァイト・パルヴァ 1998/03 市民出版社 単行本 541p
★★★★★
彼(トマス・マートン)は言う、「禅は我々の便宜的な範疇のどれにも当てはまらない」
彼の言葉はどれも美しいが、何かが欠けている。その欠けているものは、体験があって初めて見いだせる。そうすれば比較もできる。そうでなければ、トマス・マートンはまったく正しく見える---禅者に見える。でも彼は禅者ではない。彼はそうなりたかった。禅者であれば日本へ行く必要はなかった。私は一度も日本へ行ったことがない。
実際、日本の禅院や禅の大学では私の本が読まれている。でも私は、一度も日本に行ったことがない。行く必要がない。ブッタ自身は一度も日本に行かなかったし、マハカーシャッパも日本に生まれたわけではない。
彼(トマス・マートン)が日本に生きたいと望んでいたのは、あることをよく認識していたからだ。それはキリスト教が役に立たないということだ。それで役に立つ新しい道を探していた。彼の言葉、「禪は我々の便宜的な範疇のどれにも当てはまらない」はただしい。
しかしたんに「我々の範疇に当てはまらない」というだけではない、どんな範疇にも当てはまらない。それは範疇を超えている。キリスト教的な範疇や、ヒンドゥー教的な範疇、イスラム教的な範疇、ジャイナ教的な範疇・・・・・禅はどんな範疇にも当てはまらない。
どこまでも本源的だ。だからどんな範疇にも当てはまらない。本源的なものはいつも個別的だ。それは範疇とならない。
みんなは私がどこかの範疇に当てはまると思うかな。あらゆる範疇に私は反する! なぜ反するかといえば、私がそれに当てはまらないからだ。それに私は、誰にも適合したいとは思わない。自分自身で充分だ。私にはどんな宗教もいらないし、どんな哲学もいらないし、どんな範疇もいらない。
言い換えれば、私は自らがひとつの範疇だ。
禅がどんな範疇にも当てはまらないのは、禅が自らひとつの範疇だからだ。それもきわめて反逆的な範疇、まったく体系のない範疇だ----あらゆる種類の野の花が、バラや蓮と等しく受け入れられる。
蓮であろうがバラであろうが、あるいはたんなる野の花であろうが関係ない。唯一大事なのは花開くということだ。すべては自らの潜在性にしたがって花開く。その点ですべては等しい。それ以外には、色も違うし、美しさも違うし、香りも違う----まったく香りのないものもあるだろう。
だから、どれも範疇に当てはまらない。でも開花に関するかぎり、すべては精一杯に開花している。隠されていたものはすべて現実になっている。その植物の中に夢としてあったものが、現実として開花している。
前途は、あなたの潜在性の開花だ。誰もが違った潜在性を備えている。だからあなたが一個の禅者として花咲くとき、あなたはかけがえのない個人となる-----どの範疇にも当てはまらない。たんにキリスト教的な範疇に当てはまらないというだけではない。それがトマス・マートンの言う「実際、禅は我々の便宜的な範疇のどれにも当てはまらない」という言葉の意味だ。
ただし、よく言っておくが、禅はどんな範疇にもまったく当てはまらない----あなたのであれ、我々のであれ、他人のであれ・・・・・。禅はマインドを超えている。あらゆる範疇はマインドのものだ。これこそが、マインドに対する唯一の反逆であり、マインドを超えていくものだ。
これこそが自己に対する唯一の革命であり、非自己、「アナッタ」の中へと入っていくものだ。これこそが、ありとあらゆる束縛、牢獄、範疇、主義、イデオロギー、世界観、哲学からの、究極的な自由だ。それは、マインドが生み出し、マインドが理解しうるすべてからの、絶対的な自由だ。それはまた、ハートからの自由でもある。OSHO p106
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