「ZEN 道元の生き方」 「正法眼蔵随聞記」から 角田泰隆
「ZEN 道元の生き方」 「正法眼蔵随聞記」から
角田 泰隆 (著) 2009/06 日本放送出版協会 単行本: 309ページ
No.4261★★★★★
ちょうど20才を過ぎたころ、私は叔父の造園会社で短いアルバイトをしていた。
ある時、叔父に「人生で一番大事なものは何ですか?」と聞いてみた。実直な叔父は、ちょっと考えてから、「誠実さ、だと思う。そう学校では教わってきたな」と答えた。同じ質問を、わが母親にしてみた。「それはお金だろう。金がなければ何もできない」と即答した。
反対を押し切って、まともな職にも就かないまま、元祖フリーターのような生き方をしている我が息子に、説教するのは、やはり、職を得よ、稼げ、まともな一人前の人間になれ」という意味で、そう答えたのだろう。
同じ質問を母親の父親である、つまり私の祖父に同じ質問をしてみた。「人生で一番大事なものは何ですか?」
祖父は即答した。「なんだ、そんなことも分からないのか?」。私はうろたえた。
「それは、自未得度先度他だ」。
「自分がまだ渡る先に、まず他の人を渡しなさい、ということだ。これが菩薩の生きる道だ。これが最高にエライ」。
当時20歳の私は、すぐには理解できなかった。漢字も分からなかった。部屋に帰って調べてみて、その意味がわかった。それから、この言葉は私の胸に深く刻まれた。
「施無畏」という言葉を教えてくれたのも祖父だった。
700年前の道元禅師と、わがマスターOSHOの、言葉に違いはある。聞いている弟子たちが、違っているのだから、当然のことだ。字義道理、道元の世界を、この21世紀に生きることは無理だ。道元も言っている。生きたマスターに就きなさい、と。
菩薩とボーディサットヴァの言葉の意味は、違っている。決して同じではない。道元の菩薩道を生きるのか。OSHOのサニヤシンを生きるのか。ボーディサットヴァを生きるのか。
法華経によれば、ゴータマブッタの法輪は五五百年の2500年が一サイクルと言うではないか。現代人は現代のブッタをマスターとすべきなのである、と、そう思う。
そして、自燈明、法燈明、とも言うではないか。我はどこに、我がブッタ、我がマスターを求めるべきなのか。誰か、偉い人の生き方も参考になろうが、自分は自分の生き方を、しっかりと見つめて、生きていくことになるのだ。
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