「禅寺に捧げるこの一冊」<4>/「OSHO、ZENを語る」 玉川信明
「禅寺に捧げるこの一冊」<4>
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「和尚、禅を語る」 <4>
玉川信明 2002/02 社会評論社 単行本 263p
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大根引き大根で道を教えけり 一茶
万巻の中から一冊を抜き出すというのは至難の業である。ほとんど不可能。もはや無意味と言ってもいい。どの本を取っても完全ではない。一冊を取り出せば、さらに数冊が必要とされる。数冊必要となると、もはや一冊には戻れない。
このシリーズ「禅寺に捧げるこの一冊」、とはいうものの、ではどこの禅寺に捧げるの?となると、さらに問題は複雑になる。
普門寺、柳生寺、資福寺、覚範寺、輪王寺、慶蔵院、林香院、活牛寺、護勢寺、招楽寺、秀麓齋、瑞巌寺、等々、身近にお世話になったお寺だけでも十指を超える。ひとりひとりの住職の顔が見えてくる。
はてさてどうしたものか。このお寺にはこの一冊、あの和尚にはこの一冊、この季節ならこの一冊と、迷いはさらに深まる。究極には捧げる一冊など思いつかなくなる。一冊などと言わず、俳句でひとこと言えばいいのではないか。
そんな時、一茶の俳句を一句、思い出した。
大根引き大根で道を教えけり 一茶
大根(だいこ)引きは、大根(だいこ)で道を教えるのである。その道をいくつもりがないなら、さっさと通り過ぎればいい。教えてもらった限りは、その指が土で汚れていようが、マニュキュアでネールアートされていようが、とにかくその道を目指して歩き始めるのが、礼儀であろう。
いまさら、一冊を捧げると言っても、カウンターカルチャーを挑むわけでもなく、爆弾を仕掛けるわけでもない。ひたすら感謝の気持ちを、一冊に込めるのである。
玉川信明著「和尚ラジニーシ、禅を語る」(和尚ガイドブック②)については、これまでなんどか当ブログでも触れてきた。決して高い評価を与えてきたわけではない。
されど、大根引きが教えてくれた道が、大根引きだからと言って、決して間違っているとは限らない。その道しるべが大根のような土付きの汚れたものであったとしても、道そのものを教えてもらった限りは、ありがたく感謝して、その道を歩み始めるべきではないか。
はてさて、この本を捧げられた禅寺は、この本をどう受け取るであろう。貧者であっても、一木一草でも供養せよ、という教えがあるかぎり、拒否されることはあるまい。その供養は、お寺のためになるかもしれないし、ならないかもしれない。
大根引きもまた、道を教えたからと言って、大根を一本買っていけ、と言っているわけでもない。功徳など最初から求めていないのである。
禅寺に捧げるこの一冊。今日の私なら、この「OSHO、ZENを語る」玉川版を選び取る。
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