「把不住述懐」<30>/「さとりサマーディにて」<37>めぐりあわせ
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<37>めぐりあわせ
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最近、くさとりメディテーションにハマっている。ちょっとした時間があれば、庭にでて枯れ葉をむしったり、いわゆる雑草を抜いたりする。我が家に限らず、孫たちのマイホームで時間があれば、ちいさな庭の、ちいさな雑草に手をかけたりする。
きょうは、カヤの木のかやの実をかたずけながら、小さな草たちをむしっていた。ふとそこに、老婆と初老の女性が立ち寄り、カヤの木の傍らにある薬師瑠璃光如来を参拝に尋ねてきていた。
帰り足に声をかけられたので、腰を伸ばして雑談。このカヤの木のいわれを尋ねられれば、知っていることならと、概略をお話しする。実は、初老の女性の方は、最近さる方から、あなたの守護神は薬師如来ですよ、と教えられ、今日、隣町から参拝に来たのだという。
あれまぁ、そうですか、などと話しているうちに、あれこの方は、我が小学校時代の同級生に似ているなぁ、と思いついた。しばらく談笑したあとに、そっとその旨を話し、その名前を言ってみると、あらま、やっぱりご本人であった。実に50年ぶりくらいの再会である。
そして身の回りの話をしているうちに、実は、お互いが親戚であることを知ったのである。ああ、世の中は狭いな。そしてまた、この時間に、ここにお互いがめぐりあっていることに、これまた不思議なご縁を感じたのであった。
最近、こういう、いわゆる同時性というのだろうか、シンクロニシティというのだろうか、そういうめぐりあわせに遭遇することがたびたびある。神仏のお導きと考えることもできる。
最近、わが母親の認知度がいちじるしく低下しているように思われる。面会していても、話に対する反応は鈍くなった。どうかすると返事がないこともある。目が見えず、耳が遠くなった、というだけではない、なにか脳が委縮しているのではないか、などと彼女にとっては失礼な推測をしたりする。
しかし、それに比して、周囲に及ぼす波動は、決して散漫なものではなく、密度のたかい、穏かで、なおかつ、広がりのあるものになっているように感じる。これもまた薬師瑠璃光如来のご利益か、などと感謝しつつ、今日もくさとりメディテーションを楽しんだのだった。
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