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2018/09/06

「道元」その探求と悟りの足跡 OSHO <7>「禅寺に捧げるこの一冊」 <1>

「禅寺に捧げるこの一冊」 <1>

<6>よりつづく  

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「道元」その探求と悟りの足跡<7>
OSHO スワミ・アンタール・ガータサンサ翻訳 1992/11 出版社: 和尚エンタープライズジャパン  (OEJ books)  単行本  472ページ

 よく行く禅寺の和尚さんから、一冊の本を借りてきた。まったく随意に本棚にあった中の一冊をさっと借りて来たのだ。その名は「禪修行」。20年前の写真集であり、実に美しい一冊である。また、その本がこの禅寺にやってきた経緯も意味がある。感動の一冊である。

 いずれ返しにいくことになる。その時私はありがとうございました、と返却するのだろうか。あるいは、お礼にこの本もどうぞ、と私から一冊贈本することがあるのだろうか。もし一冊お礼するとするならば、道元のお寺だけに、OSHOの「道元」が良かろう、と単純に考える。

 だが、さて、もし道元禅寺の和尚から見た場合、OSHOの「道元」はどう見えることだろう。序文の紀野一義氏は、著名な仏教関係者であるから、いい窓口にはなってくれるだろうが、初めてOSHOと出会う人は、まして道元の弟子であることを自任している人々にとっては、一体OSHOはどう見えることであろう。

 そんな思いで、OSHOのジョークの部分も、毎回のレットゴーの瞑想の部分も省いて、道元やブッダや、俳句の部分だけを抜き出して、目を通してみる。そこにどんな効用があるだろうか。OSHOはOSHOであり、道元は道元である。されど、OSHOが指さしているものが、道元がさした同じ月だったとするならば、月から見た場合、OSHOと道元は同じ位置にいることになる。

 そして、よくよく瞑想してみれば、OSHOも道元もなく、ましてや月さえ例え噺だ。そう喝破してしまえば、そこには、証修されるべき自己が残るだけである。インドもなく禅寺もない。自らひとりに立ち返ってみれば、借りた本もなく、お返しすべきお礼もない。

 皮枯れて実七色のもろこしに  把不住

Dogen/OSHO<8>につづく

「禅寺に捧げるこの一冊」 <2>につづく

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