「AIを信じるか、神(アッラー)を信じるか」島田 裕巳
「AIを信じるか、神(アッラー)を信じるか」
島田 裕巳 (著) 2018/06 祥伝社 新書: 248ページ
No.4215★★★★★
この方のお名前を拝見すると、どうしてもヒロミちゃ~ん、と呼びたくなるのは、例の20数年前の事件にこの方が、巻き込まれてしまって、なんともお気の毒な状況に陥ってしまったからで、確かに同情もしたくなるし、揶揄したくなってしまうからでもある。
いかん、いかん。新しい本には新しい視点で接しなくてはならない。と、体制を整え直すのだが、そもそもこのタイトルは、合っているようでいて、どっかズレているようなチグハグさを感じる。ちょっと変えれば、「AIを信じる人、神を信じる人」なんていう、かつての草思社流のタイトルづけを思い出す。
ところで、ヒロミちゃん、あったはどっちや。そう聞きたくなる。
前半は、AIを扱っているだけあって、当ブログの読書歴と割とダブっている。AIやら人工知能やら、シンギュラリティ、ケビン・ケリーの「インターネットの次に来るもの」 などが登場するに至っては、ああ、そうなんだよねぇ、と言いつつ、なんだかまどろっこしいぞ、と思ってしまう。歯がゆいぞ。
第二章のイスラム(アッラー)に到る頃になると、その状況は一変する。たしかこの方の妹さんは、イスラム関係のひとと結婚したのだ。義弟がトルコ人なので、イスラムに無関心ではいられないのは、理解できる。
それに反し、一読書子としてのこちらは、イスラムは差し迫った話題ではない。タジマハール宮殿がインドにありながら(あるからこそ)イスラム文化なのだろうなぁ、ぐらいでとんとリアリティがない。
かつて当ブログにおいては、10年前ほどであるが「私がなりたい、もう一人の私」なんてものを発表したことがある。その段階では、私は能天気に「イスラム社会に生まれたい」と書いてある。
それは、いかに私自身がイスラムに無関係か、そしてそのイスラムについてはいかに無知であってはいけないか、の自戒が込められていた。決して無関心ではないが、とっかかりがない。もう、次は生まれ変わっていくしかないか、ぐらいの遠い世界であった。
本書における著者のイスラムに対する展開は、なるほど、と思わせるところが多い。前半部の歯がゆさは、ぎゅぎゅと引き締まり、これを言いたかったのか、という、独自の論旨が展開される。独自と言っても、各所に引用文献が表示されているところから類推するに、知らないのは私だけであり、思想界においては、キチンとそういう理解が流通しているのかもしれない。
後半部に到っては中国のデジタル毛沢東主義などの視点が展開され、ふむふむ、ずいぶんと世界観を広げたものだな、と思う。結局、新書一冊でまとめられるような内容なのかぁ、とちょっといちゃもんもつけたくなる。
最終まで読んでみて、結局は、ヒロミちゃん自身は、どっちを「信じ」、どっちを信じる「人」なのか、わからない。千秋楽までもつれ込んだ相撲優勝者レースの、どっちが勝つか、大関か、やっぱり横綱か、なんて書き立てておいて、予想は、やっぱり勝負はついてみないとわからないよね、と逃げられた感じがする。
逃げるはずである。著者は、AIでも神(アッラー)でもないものを持っている、ガラパゴス化したとする「日本」に、第三の選択肢を与えているのだ。もちろんこの書が日本語で書かれた日本人に向けた小さな書であることに理由はあるだろう。
つまりは、一読者、一日本人としては、AIでもなく、神(アッラー)でもないよね、という、いわゆるあの曖昧な日本人的味付けをして、終わっているのである。そして、おそらくご自身も、そのガラパゴスに逃げてくることによってホッとしているのであろう。
一読者としての結論は、この設問自体、ズレているという判断である。そもそも「信じる」とは何か。そういう意味では私は何も「信じ」ない。AIは道具として事実として進化するだろうし、まずは神(アッラー)が世界統一する日は来ない、と思うし、私の人生に、それを信じる余裕はまるでない。もちろん無視はできないし、無関心でもない。
されど、この書で言われるところの、アッラーは、まったく固定していて可変性がない、というところは受け入れにくいが、偶像化しないところなど、万民だれも平等であることなどの理念の中に、私は密かにZENと同質のものを垣間見る。敢えてそれに名前さえ付けることも、本来は憚れる。
問題を大きく構えてしまって、解決不能なテーマを追いかけて、自分の人生を中途半端に終わりたいとは思わない。だが、これまで積み上げられてきた重層な文化という地平に立って、新しい技術の芽を育むことはやぶさかではない。
ケビン・ケリーがいうように、結局は未来はわからないのだ。わかるためには、今日与えられているこのチャンスを精一杯生きて、その結果、未来が来るのだ。だから、まずは、今日を前向きに生きようではないか、という結論になるだろう。
ヒロミちゃん、と呼んだらいいのか、島田教授とお呼びしたほうがふさわしいのか、どっちがいいか悩む。アカデミズムの頂点を極めることのできる力量を持ちながら、どこかかわいらしい側面をもお持ちになるお方である。
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コメント
ヒロミちゃんこと島田教授についても関連リストは作ってある。
http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/20-87c0.html
投稿: Bhavesj | 2018/07/24 01:36