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2018/07/07

「スターウォーズ エピソード5」 私がお前の父親だ。

 この部分を見ていて、思い出したことがあったから、メモしておく。今までも機会があったら書こうとは思っていたが(ひょっとするとどこかに書いたかな)、なかなかそのチャンスがなかった。

 私は父親と8才の時に死別したが、それまでの6年間、父は病気で遠隔地の隔離病棟にいたから、私の記憶では、父親の記憶はほんの数えるほどしかない。

 小学校に入学する直前あたりだろうか、いちど家族とともに電車に乗って面接に行ったことがある。その時、一生懸命勉強したら、なにか欲しいものを買ってあげるよ、と言ってくれた。私は「乾電池で動く電車がほしい」と言った。今でいうプラレールのようなものだっただろうか。

 結局、父はその約束を果たさず亡くなった。戦争で体をこわして生還したとは言え、年金も補償もない時代、健康保険も十分ではなかった。ましてや永年職から離れていた男は、幼い子供に電車のひとつも買い与えることができなかった。

 我が家は大きな農家だったので、家族は多く、父親の存在がなくても、寂しい想いをしたことはなかった。父が亡くなった直後、早朝など目が覚めて、ひとり布団に横たわっていると、天井近くで、魂となった父親が帰ってきていて、子供の私を見つめているようなエネルギーを感じたことがある。

 父親がいないことに不足を感じたことはなかったが、それは幸せなことに他の周囲の人々の愛情に包まれていたからだろう。ただ、そのことに起因して、激しい怒りを感じたことが一度ある。

 中学校三年の卒業式の直後に、片親の卒業生だけを集めて、市が主催して、壮行会をやってくれるという。このことについてだけは納得できなかった。それはどういうことか。実は片親の卒業生は、私の周囲に結構いた。だが、私にはその自覚がなかった。私は納得できず、その式を無断で欠席した。

 このことは、おそらく私が一番最初に、教師に反抗した最初の出来事だったかもしれない。

 父親のことなどほとんど考えたことはなかった。だが、23才になってインドに渡り、さらにはスリランカに渡って、日本山妙法寺の藤井日達上人のもとで修業していた頃、24才になり、さらには父親の17回忌に当たっていた。そこで私は父親の法名を伝え、追善法要をしていただいたことがある。

 その直後、ふたたびインドに渡ってプーナに戻り、大きなドミトリーの一角に泊まり込んでいた夜、私は父親の夢を見た。おそらく、生涯に渡って、私が父親という存在の夢を見たのはこれまで、この時一回切りであった。

 暗闇の中、彼は、お供をひとり連れて、杖をついて静かに歩いてきた。その瞬間、私はそれが父親だと、すぐに分かった。「お父さん!」私は叫んだ。

 しかし、父はこう言った。「確かに私はお前の父親だ。しかし、父親ではない。私は私の旅を続けている。お前はお前の旅を歩いていきなさい」。そして静かに歩いて、闇に消えていった。

 私は、ある意味、この夢で父親から自立した。

 それから、さらに時間が経過し、私は結婚し、子供が生まれ、さらに息子は高校生になった。私は息子の高校のPTA会長となった。その高校の野球部が、どうしたことか、県内で優勝し、甲子園出場することになった。私の息子はテニス部だったので、隣のグランドにいた。

 経緯があって、結局、この高校に集まった寄付金で甲子園出場記念の雨天練習場を建設することになった。私はそのことに忙殺されもしたが、多くの人々に感謝もされ、表彰も受けた。

 ある時、ふと気づいたのだが、この高校の谷を挟んだ向こうの丘には、約40年前に父親が亡くなった国立病院があるのだった。あの病室から私の父親は、ずっと私の活躍を支えてくれていたのではないだろうか、と感じた。

 私は、父親からのプレゼントというものは、おそらく一度しか記憶していない。それは、入院中に同室の人が制作してくれたという小物入れである。

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 ビニール針金で器用に編まれたボックスで、中には何も入っていなかった。姉弟三人にそれぞれ、名前のついた布がついていた。上手な字だった。私が見た父親が書いた唯一の私の名前である。

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 私はこの小さなボックスにそれほどの深い意味を感じてはいなかったが、ある時、ふと、これは、ゴータマ・ブッダがラーフラに渡したという、乞食のひと碗に思えたりすることがある。

 この高校が県内で優勝した時、実は県立高校が優勝したのは、実に40年ぶりだったという。その時まで県立高校が優勝したことがなかったので、県の教育委員会には甲子園に送り出すノウハウがなかった。その時、すでに県の高校課長になっていたのが、当高校の前校長のST先生だった。先生からは、この出場にあたって、裏から表から、励ましていただいた。 

 ST先生は、40年前に優勝した当時のその県立高校の生徒だった。先生は、港町に住んでいた。父親が遠洋漁業の出かけて遭難し、還ってこなかったという。貧窮した家計を助けるため、高校を卒業した彼は、そのまま母校に用務員として就職した。

 そして通信教育で大学を卒業し、高校の教員となった。県内各地の学校に勤務しながら、結局彼は、校長として、出身母校に還っていったのである。そして二校目の校長として、当の高校に赴任してきたのだった。

 私がPTA会長として、校長室を初めて訪問した時、ST先生は、お茶を飲みながら、和やかに話をしてくれた。おもむろに、部屋隅においてあった、さりげない小さなロッカーの中から、さらにさりげない一本のモップを持ち出してきた。

 「会長、私は、学校の用務員として社会人をスタートしました。
 最初の仕事はモップで掃除することだったんです。だから、その初心を忘れないように、ずっと、このモップを持ち続けているんです。
 トイレなんか汚れている時、私はすぐにこのモップを持ち出して掃除してくるんです。
 そうすると、不思議ですね、他の先生たちも、校長にそんなことをさせてはいけない、と思うのか、すぐに掃除を始めるんですよ、
 わっはっは。」

 私には、その一本のモップが、ST先生にとっての、ジェダイ騎士のライトセーバーにさえ感じられた。

 先生はその後、県の高校課長となり、そして最後は、県内随一の進学高校の校長として勤務されたあと退職された。そして地元の大学に乞われて大学教授となり、高齢となられた現在も、教壇に立ち、学生たちの指導にあたられている。

 私は自分の父親からプレゼントされた小さなボックスに、旅で勝ち得た最も大事なものを入れて、大事にして保管してある。

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