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2018/06/13

バトルと炎上はネットの華?<1>

「バトルと炎上はネットの華?」<1>

当ブログ2・0を整理していて、アクセス元リンクに興味深い記録があった。というか、以前にも気がついていたのだが、深入りしないで来た。「火事と喧嘩は江戸の華」とかいうフレーズに引っ掛けて、私が作ったのは「バトルと炎上はネットの華」。

 すでに旬を外してしまったことわざだが、割とネット社会の本質を表していると思う。みんな自由に発言するので、あえて調和的に話を合わせない人も多い。傍からみていて面白い時もあるが、まったくつまらない時も多い。

 他者はどうあれ、私はネット上においては、その渦中の中心にはいたくない。だから、どうもきな臭いなぁ、と思う時は、さっさと、三十六計逃げるにしかず、で、トンズラしてしまう。それがいいのか悪いのか、もうどうでもよくなる。自分は自分で自分の世界を展開していけばそれでいいや、と納得してしまう。

 でも、それでいいのかな?

 次にコピペしたのは、私のブログに対するコメントである。最初はこの方の訳書の印象を私がメモしていたブログに対するコメントだ。会ったことはない人だが、おそらく二次か三次のつながりで、割と近くにいる方である。

 この方の書き込みは、まったく意味がない、などというつもりはないが、ネット上で、いちいち反応するほどの情熱は、実はこれまで湧いてこなかった。今でもそうだ。

 でも、それでいいのかな?

 ネット上では、これだけあからさまに反応してくれている書き込みも少ないし、他者のブログの記事ゆえいつ消えてしまうかわからない。何はともあれ、まずは、ここにコピペだけさせていただきます。

 そして、そのうち気が向いたら、すこしづつ部分的でも、私の想いも記していくことにします。

 コピペ元。http://mahorobanomori.web.fc2.com/Osho-Diary-2015-11.html

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「アティーシャの知恵の書」の書評を久々にネットで探してみたら、例のBhaveshの「地球人スピリット・ジャーナル」の中に、気になるコメントがあった。
 
http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/the-book-of-wis.html

 特に下記の文を引用する・・・・


 ・・・「今は「アティーシャの知恵の書」をゆっくり読みなおしている。これにはそれなりにいろいろ訳がある。
 Osho本という奴は、「読書」には適していない。「存在の詩」以来、私はOsho本を最初から最後まで一気に通読したことは、たったの一度もない。必ず引っ掛かるのである。第一章、あるいは、最初の一頁、いやいや、最初の一行、時には、表紙をみただけで、「ストップ」してしまう。
 だから、手持ちでありながら読破していないOsho本は山とある。私はそれを積ん読本とは思わない。
Oshoの本は、読書ではなく、私にとっては瞑想だ。なにか、今日、瞑想するネタがそこにあれば、それはそれで、十分なのだ。」・・・


 ・・・・・独特の読書観と言っていいのかどうか・・・・?
読み進めることが途中で止まってしまうということ自体、この人に何か問題がある、ということだ。
 「瞑想するネタがそこにあれば・・・」、瞑想するネタ ???  意味がわからない。
瞑想するのなら、むしろ、そこで止まってしまう自分自身について瞑想するべきだろう。なぜ自分はそこに引っ掛かってしまうのか、ということについて・・・。

この人はかなり古いOshoの弟子だが、ようするに、Oshoの本をまともに読んだことはない、と自分で告白しているのである。

 それにまあ、Oshoの本が読書に適していないと言うのなら、一生懸命翻訳している者にとっては、その翻訳作業は無駄だと言うことになるのだろうか?
 一度も翻訳をしたことのない人だからこそ言える好き勝手な言葉だろう。

 以前、この人が「神智学大要」の書評の中で、この本をほとんどブラヴァッキーの「シークレット・ドクトリン」からの引用である、と評してしたのを読んで、私が、「それは間違いである。この『神智学大要』全5巻の中で、『シークレット・ドクトリン』からの引用は第1巻の一部に過ぎず、残りのほとんどは、リード・ビーターとアニー・ベサントの著書から引用である。」と指摘したら、
 この人は、「私はこの本をまともに読んだことがない。なぜならこのような神秘学の本を読むことで、刷り込まれるのを恐れているからだ。」と返答してきた。
 刷り込まれる・・・ようするに、そこに書かれてある知識を信じ込ませられる、ということを恐れているのだろう。
 それはその人の意志の問題であり、恐れているのなら、それはその人の弱さを現わしていることになるが・・・
 ようするにこの人は、まともに本を読まずに、その本を論評しているのだ。

 続けて・・・


 ・・・「サニヤスとはなにか、サニヤシンとはなにか、については他書に譲るが、いずれにせよ、この場においては、Oshoが言いだしたものであり、Osho独特のサニヤスがネオ・サニヤスと名づけられている。
 1979年当時のOshoネオ・サニヤスの意味しているところは、外見的には、Oshoにつけてもらった新しい名前を使い、身につける衣類はすべてオレンジ色にし、その上から常時、Oshoの写真のついた数珠を首にかける、というものだった。
 逆に考えると、今あらためて当時のサニヤスを考えるというアナクロ読書は、自分にとってはそれほど益のないことのように思い、Q&Aの部分を飛ばして、アティーシャの経文についての講話の部分だけ読んで行ったほうがいいのではないか、と思ったりする。そういう読み方も確かにあるに違いない。」・・・


 もう自分にはサニヤスのことはわかっている、とでも思い込んでいるようだが、そういう人にこそ、この本のQ&Aを読んでほしいのだが・・・。
 昔の古いサニヤシンほど、自分はOshoについて何でも知っていると思っているのかもしれないな。

 この後、なんだか難しい考察論調が続いていく・・・・、そして、


 ・・・「 オレンジ色の衣服も、Oshoの写真のついた数珠を身につけることも、システムとしてはすでに廃止された。明確な形で廃止されてからもすでに30年近く経過している。だから、35年前に行なわれたこの本の講話には、現在の読者にはふさわしくない表現が多くある。誤解が誤解を生みだす可能性はある。
 しかし、他書と併読しつつ、あるいは瞑想をしつつ、サニヤシンという意味を深く探っていくなら、Oshoが差し出したネオ・サニヤスという概念が、いかに革命的であるかが、次第に理解できるだろう。ここでいうところの革命は、ネグリ的センスでの革命ではない。Oshoが多く採用するのは、反逆、である。・・・・・・・・・・・・
 翻って、この「アティーシャの知恵の書」に戻る時、読者が他の誰であろうと、私が私のためにする読書であるとするならば、あらゆる修正を繰り返しながらも、そもそも持っている本質を突き止めてみれば、私はサニヤシンである、という更なる自覚を強烈に促してくる、パンチ力ある一冊である。
 まだ28日分ある講話のうちの7日分にさしかかったところだ。完読するのは、いつのことになるやら。そも、Oshoの本においては、実は、完読すること、それ自体に、本来の意味はない。私が、サニヤシンである、という自覚。そして、サニヤシンというのは、最後の無意識の象徴であった、という更なる自覚が起これば、その時点で読書の全てが成就するはずである。」・・・


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 とにかく、難しく考える人だ。
 というか、ただマインドの中でもっともらしく正当化しているだけに思えるが・・・・。

 まあ、どう読もうと、その人の勝手だが、この最後の文章から見えるのは、この人は自分の都合のいいようにOshoの本を扱い、解釈している、ということだ。 主点は、自分の都合、解釈である。

 私の解釈からみれば、この人は本当にOshoを理解しているのか?と訝ってしまう。最古参のサニヤシンでありながら・・・。
 これが、前の日記に書いた、Oshoの翻訳をすればするほど、Oshoと日本のサニヤシンの言動が真逆であったのを感じる・・・・、という印象に関連してくる。

ーーーーーーーーーーーー

<2>につづく

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