幸せ
幸せですか? 自分に問うてみる。
幸い、体はまぁまぁ健康。目も歯も血圧もそれなりに問題なしとはしないが、年齢相応で、決して極端な壊れ方はしていない。かつて若い時分に余命半年と宣言されたわりには、元気そのものと言える。幸せだろう。
経済的には、こちらもまぁ問題なしとはしないが、日々を暮らしていくほどの基盤はある。補償も厚くはないが、壊れてもいない。まずまず足りていると言えるだろう。不足したなら不足したなりに我慢し、やっぱり足りなかったら、もうすこし働けば手が届く。幸せと言えるだろう。
精神的にはどうですか? こちらもさらに問題含みではあるが、よそから見ると、私ほど自由気ままに生きている人もいないように見える場合もあるらしいので、大きい声では不幸せだとは、とても言えない。
もちろん自分でも不幸せだと思ってはいないが、人生日々でこぼこ道である。間違ったり、失敗したり、反省したり、困ったり、いろいろある。だが、そこから脱出できないほどの大きな落とし穴にはまっているとは言えない。すべてにおいて修復可能だ。
そう思えるだけ、私は幸せなのだと思う。
福禄寿、という。まずは家族なかよく、隣人たちと楽しく、みんなに囲まれて生きていけるなら、それは福、というべきだろう。生活も暮らしていけるほどには基盤ができているなら、それは禄と言っていいだろう。すでに還暦をすぎて、豊齢と言われる年代に入ったが、目だって大きな欠陥もなければ、それは寿として、感謝しなければならない。
このバランス。いつ崩れるかわからない。いや、家内などに言わせれば、家計や日常生活態度など、大きく崩れているじゃないですか、とクレームが飛んできそうだ。だが、わたし的には、どんなに傾いても、修復の可能性があるうちは、大丈夫だと、タカをくくっている。
それでもなお、いつかは大きくこのバランスが崩れることはありうるだろう。そして、そのバランスという意味が失われることもあるだろう。その時、私は自分で、幸せです、と言えるだろうか。
精神のバランスをおおきく崩した青春時代、私には、ある確信がある。あれほどの精神的な苦境にありながら、私は自殺を考えなかった。生きることのほうが楽しそうだった。だから、あの時ほどの苦境に陥ることはなかったにせよ、あの時あれで絶えたのだから、もうあそこまではいかないだろう、という読みがある。
肉体的には、重篤な病気で余命半年と宣言されたばかりでなく、他にもなんどか危うい境遇に出会った。それでもまだ生きている。誰かが、あなたは守られているのよ、と言ってくれた。そうだろう。守られているのだと思う。ありがたい。
怠慢や不注意により、社会的生活基盤を失いかけたこともあった。いや、一度ならず、他にも何度か失った。糸の切れたタコのような状態が何か月も、何年も続いた。されど、そこに救いがなかったか、と言えば、そうではない。希望はあったし、援助もあった。多くの縁に救われて、私は今日、ここに生きている。
行政から、動物園や野草園が無料になり、博物館や美術館が半分の料金で入館できる豊齢カードをもらってみて、ああ、人生はここまできたか、と思う。あと何年つづくものかわからないが、私は私の人生を、幸せに生きていると、ここに記しておくことができる。
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