カテゴリー「10)退の巻」の108件の記事

2019/02/27

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<75>「退の巻」について

<74>よりつづく

 

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

 

<75>把不住述懐「退の巻について

 当ブログ「把不住述懐」も108記事ごとのカテゴリ名も、「禅の巻」、「述の巻」、「迷の巻」、そして「退の巻」までやってきて、それとなく体制は整ったことになる。ただし、このブログサービスを提供しているココログが、また3月に全面改訂される予定で、結果的にどのような影響がでるか分からないところもある。

 思えば、私の生活はこのブログにかなり大きく依存しているところがあり、この十数年の記録が、たとえば何かのきっかけで消えてしまうようなことがあれば、個人的には大損害だなあ、と痛感する。その前に、別ディスクやハードコピーなどに記録しておかなければならないのではないか、といつも思うが、なかなかできないでいる。

 把不住は、Bhaveshの日本語表記として使用しているが、最近、瞑想センター名であるスバガットの日本語表記を素晴楽堂とすることを思いついた。現在試用期間であり最終的に採用するかどうかはわからないが、俳句の短冊などには、そう表記し始めている。

 述べ始まって、迷って、退いてみた今回のカテゴリだったが、私の場合は、基本保守的で、割と当たり前の岩盤に退いているのではないか、と危惧する。  

「再読したいこのカテゴリこの3冊 退の巻」は次のとおり。

「これで眠くならない! 能の名曲60選」
中村 雅之 (著) 2017/10 誠文堂新光社 

「仏像がわかる本」 基本の種類と見わけ方ある。
岩崎 和子 (監修)  2001/10  淡交社

「曹洞宗のお経」 (わが家の宗教を知るシリーズ)
中野 東禅 (監修) 2000/07 双葉社 

 以前より記録を残しておきたいと思っていた「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅の記述も、割と順調に走り出し、80日中の60日分を走破したことになる。ある意味、この人生の原点となる旅である。今は走り書きの程度だが、今後はもうすこし資料を重ねて、より明瞭なものとしてみたい。

 次のカテゴリ名は「返の巻」とする。積極的な意味はないが、振り返る、見返る、返す返す、などの意味があるかとも思う。実質は、「退の巻」の後継となろう。

<76>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「退の巻」編

<前>からつづく  

再読したいこのカテゴリこの3冊 

「退の巻」

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「これで眠くならない! 能の名曲60選」
中村 雅之 (著) 2017/10 誠文堂新光社 単行本: 255ページ

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「仏像がわかる本」 基本の種類と見わけ方ある。
岩崎 和子監修  2001/10 出版社 淡交社 単行本: 204ページ
★★★★★


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「曹洞宗のお経」 (わが家の宗教を知るシリーズ)
中野 東禅 (監修) 2000/07 双葉社 単行本: 205ページ

★★★★☆

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<28>

<27>よりつづく 

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <28>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

仏像彫刻を趣味とすることについて。

 表題のようなテーマでなにか一文書くなんてことは、ごくごく最近まで思いもつかなかった。そもそも、いまだに仏像彫刻を趣味としているわけではない。ただそうなってしまう「危機」が迫っているかも、という非常事態を身に感じるのである。

 そしてそれは、自ら望んだ、ということではなく、環境や出会いや運命が、どうもそちらのほうに向かっているのではないか、という妙な予感がするのである。それは嬉しさ反面、戸惑いや、避けたい気分も醸し出し、自分としてはまったく結論の出ない状態となっている。

 その気分を吹っ切るために、この一週間ほど、ひさびさに彫刻刀を握ってみた。そして、アイ,ロボット用のお面を彫りかけてみた。なかなかうまい具合に途中まで半完成の状態まで来た。

 彫刻などは、誰かに依頼されたり、どこかに出品するのでない限り、どこが完成ということはない。これでいいだろう、と思えば、他人には中途半端に見えてもそれはそれでいいのだ。他人がいくら褒めてくれても、やり足りないものはやり足らない。実に不思議なものである。

 さて、今回久しぶりに彫刻の感触を思い出したところで、率直なことを、自分のためにメモしておく。

①彫刻刀を新調した。といえば大げさだが、以前使っていたのは子供たちが使ったもののお古で、しかも私が使っているうちにほとんど欠けてしまって、ボロボロになって捨ててしまった。近くの大型文房具店に行ったが、子供たちが使うようなものが二種類あったが、次回からは、やはりもうすこし吟味しなければならないだろうな。

②一週間ほど彫刻刀をいじっていて、今回はほとんど指をケガすることはなかった。のこぎりやノミ、かんな、カッターやハンマー、電気ドリル、キリや画びょうなど、さまざまな危険な道具を使うので、これまでは生傷は絶えなかったが、今回は、ちょっと木片の刺が指先にちょこっとだけ刺さって、点状の傷が一時的に見えた程度だった。

③材料の材木は、いつもは廃材や余り木で、別段吟味したものではない。むしろ雑木なので、練習用と割り切っているが、これだけの精力を傾けるのだから、結局最後は作品とするならば、最初の最初からキチンとした材料を使うべきだろう、と、今回も痛感した。

④やればやるほど目が肥えて来るもので、以前作った作品のアラばかりが見えてきて、ありゃ、これはいかん、と何回も思った。作れば楽しいのだが、気まぐれに作った作品などに、完成度など、最初から求めてはいけない。人の目に触れさすなど、気恥ずかしいことは、今後避けるべきかな、と反省した(笑)。

⑤彫ったり、組立てたりして、木目が大事と思って、彩色などはまったくしないで来たが、経年劣化もしてくることになる。ある程度の彩色や装飾は必要であろう。ただし、それはそれ、あらたなる技術と発送、アイディアも必要となる。それに伴って経費もかさむ。どこまでを自らの領域とするかは、実に微妙なところである。

⑥どの分野に首を突っ込んでも、実に世界は広い。満遍なく全体を見渡してから自らの分野を決めていくのか、最初から猪突猛進で自分の世界に没頭するのか。あるいは、どの分野においても、先達さんたちがおり、また、道もさまざま微妙な違いを見せる。それらをどうかき分けていくのか、新たなる迷いを生じさせることとなる。

⑦完成度をどの程度にするのか。そのためには、どれだけの時間と経費をかける余裕があるのか。自らの希望と技量を推し量る必要がでてくる。いかに趣味の世界とは言え、中途半端はいけない。ここまでならここまで、と最初から目標を立てておくべきだろう。また、人生の中で、自らのどれほどの時間が残されているのかも、逆算しなければならないのではないか、と毎度痛感するものである。

 書き出せば、他にもいろいろでてくる。まぁまずは7つほど上げておいた。このテーマ、また続きを書きそうな気がする。

<29>につづく

 

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「オン・ザ・ロード1972」<75>08/21 清水駅(静岡)

<74>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
★★★★★

<75>1972/08/21 清水駅(静岡)

 この日は、長野県小諸から静岡県清水まで移動したことになる。規定の国鉄線などを利用したわけじゃないので、どこをどう走ったのかは、今となっては判別不能。なにせ行き当たりばったりのヒッチハイクの旅。出たとこ勝負の度胸旅行である。

 静岡県に行き、わざわざ清水駅に泊まったということは、その時そこに降ろされてしまったのか、あるいはわざわざ清水にあこがれて行ったのか。もしあこがれて行ったとするならば、そう、それはあの清水の次郎長オヤブン目的であったに違いない。

 仮に次郎長オヤブン目的で行ったにしても、おそらく失望したに違いない。講談の世界がそこに展開されているわけでもなく、次郎長の片鱗さえ、町にはほとんとなかったはずだ。

 いまなら観光資源として、合羽からげて三度笠みたいなモニュメントや、せめてタテカンくらいは見つけることは可能かもしれない。ただ、夕方になって到着した、行きずりの若者の旅などに、それほど親切な時代ではなかったはずだ。

 なにか町に「ヤクザ」なものを見つけてウロウロしたような気もするが、他に別な興味をひくようなことがなかったのかな、と、今となってはちょっと恥ずかしい気分だ。

 ここからいよいよ、東京に戻ることになる。

<76>につづく

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2019/02/26

「オン・ザ・ロード1972」<74>08/20 小諸駅 

<73>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
★★★★★

<74>1972/08/20 小諸駅

 そもそもこの時の旅は一体何が中心の目的だったのだろう。もちろん神社仏閣の探訪ではなかった。そして観光旅行でもない。有名な観光地を巡ったからと言って、なんの面白いこともない。若者文化の拠点についての情報であり、未来についての活動の展望のリサーチである。

 小諸というフレーズからは、私の中からは生まれるものは少なかった。小高い丘から下界を眺めていた記憶があるが、それこそ、寂寞とした旅情を感じることはできても、まだまだ18才の少年には、似合わない風景であった。

 この日は小諸駅に泊まったようだ。小諸駅は小さな駅だったように記憶している。それにしても、各地で駅にお世話になったものだ。ベンチを確保し、シュラフを引いて、そこに座って地図を広げ、夜も10時頃になると、眠りにつく。

 朝は結構早い。一番電車ですぐ起こされる。当時は、駅員が邪魔することはなかったし、むしろ、夜間の警備は駅員がしてくれていたので、むしろ安心だった。夏は暑い。すっかり汗をかき、近くの公園の水道でタオルを絞って体を拭くこともたびたびあった。

 そういえば、通りがかりの商店で、ビニール袋入りの野沢菜を買い込んで、それを切る包丁も持っていなかったので、手づかみで、そのまま食べたこともあったな。味もおいしいもあったものではない。ただただアリバイ作り、という時もあったな(笑)。

<75>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<73>08/19 ドッキング at アミ 小諸駅前 

<72>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
★★★★★

<73>1972/08/19 ドッキング at アミ 小諸駅前 

 小諸は、私たち4人の旅仲間のリーダー格である流峰の一押しのスポットである。高校生時代から、彼は避暑や合宿などで利用しており、その後は夏休みなどのアルバイトなどもしていたようだ。

「小諸なる古城のほとり」  島崎藤村
                             

小諸なる古城のほとり          
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず          
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)
日に溶けて淡雪流る

 文学青年・冬崎流峰の面目躍如たるところである。その後、小諸に深入りしたかどうかは定かではないが、後年、「山小屋」運動に深入りしていく彼の素質の、本質的な部分と共鳴していたのだろう。

 この日は、小諸駅前の「アミ」という喫茶店での4人のドッキングである。小諸に土地勘のある流峰が提案したスポットであった。ひさしぶりに4人で会って、さてどんな話をしたのだったか覚えてはいないが、あちこちの情報の交換をしたはずである。

<74>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<72>08/18 上高地 トラック

<71>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<72>1972/08/18 上高地 トラック

 この日は、小中高時代のガールフレンドが働いているという、立山の山小屋を訪ねることにした。彼女が山に入ったと聞いたのは、今回の旅に出る直前。旅に出るから立ち寄るよ、と手紙は出していたが、その後すぐに出発してしまったから、その返信は受け取っていなかった。

 彼女は高校生時代から、もう一人の同級生と、福島県内の山中にある廃校を借りて何事かしようというプランを持っていた。いやはや勇ましいなぁ、と見つめていたが、結局は、立山の山小屋ペンションに修行に旅立ったのである。

 はてさて、どのように成長したかなぁ、と再会するのが楽しみだったが、いざペンションに到着してみると、体調を壊し、ずいぶん前に下山したよ、とのことだった。う~ん、残念。あよなぁ、なかなか難しい。それきり、彼女とは連絡が途切れてしまった。

 彼女は、高校生時代、今となって考えれば、謎解きのようなセリフをつぶやいていた。「男と女って、友情で一生付き合っていけるのかしら・・・?」

 ん?と思った。それは当然、ありうるよ。僕たちは一生友達でいようよ。

 その私の返答は、いかがなものだっただろうか。今となっては取返しがつかないが、謎のような問いに、18才の私は、ひょっとすると、頓珍漢な答えをしてしまったのかもしれない。反省しきりだ。

 結局彼女はその後、一浪して中部地方の大学に入学したらしい。それっきりの今世の付き合いになったが、今でも後ろ髪引かれる思い出である。

 この日はトラックにヒッチハイクした。ダンプのような石材を運送するガッチリした運送車だった。その運転手は、もと力士のガッチリした体躯の頑強な男性。まだまだ若い優男だったが、石材運送業としては、実にぴったりだと思った。

 ほら、あそこの山肌が削られているだろう。あれは、数日前の嵐で崩れて全国ニュースになった被災の現場だよ、と説明してくれた。だが、もうすでに数か月旅暮らしの私には、新聞も見ていなかったので、全然、そんなことに気づいていなかった。

 そんなことより、彼女はどうなったかなぁ、と上の空で、元力士の運ちゃんの説明を聞き流していた。

<73>につづく

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2019/02/25

「オン・ザ・ロード1972」<71>08/17 飛騨高山駅

<70>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<71>1972/08/17 飛騨高山駅

 1970年に創刊された若い女性向けの雑誌『an・an(アンアン)』と、1971年創刊の『non-no』(ノンノ)は、多数のカラー写真による旅行特集を掲載した。美しい写真や記事に刺激され、これらのファッション雑誌を片手に持った多数の若い女性が特定の観光地に押しかけたので、アンノン族と命名された。Wikipedia

 1972年のこの年は、いわゆるアンノン族の走りの年でもあった。広島で会った(仮称)小百合ちゃんもその一人だっただろうし、 ある意味、私なぞも、男性版アンノン族と振り分けられたかもしれない。別名カニ族などというのもあったが、いわゆるアンノン族は、私のようには野宿や駅に泊まったりはしなかっただろう。

 ある意味、白洲正子のような人は、60年代から一人旅を始めていたのであり、私なんぞは勝手に彼女を元祖アンノン族と揶揄している。女性進出の時代、一人旅の女性なんて考えられない時代から、一人旅もなかなか素敵だね、という時代になった。少なくとも、団体旅行でバスで回るなんて窮屈な旅を女性が嫌い始めたのだ。

 この飛騨高山は、豪雪地帯の茅葺屋根という意味では、鳥取の私都村などと共通していたが、すでに観光地として、立派に自立した地帯だった。見事な合掌造りの農家が並び、なるほど、これは一見にしかずという眺めである。

 この地方をあの女性週刊誌アンアンやノンノが見逃すはずはなく、すでにアンノン族が多数闊歩するスポットとなっていた。声をかけようと思えば、いくらでも、笑顔で答えてくれそうな短大生などがいそうだった。

 しかし、たまたま私が声をかけたのか、相手から声をかけてくれたのか、私知り合いになった女性は、もっと年上で、自称看護婦というふれこみであったと思う。二言三言話した後に、彼女が私に依頼したのは、一通の紙切れを寄こして、ここにダイヤルしてほしい、とのことだった。

 つまり、この当時、携帯やスマホなどというものはなかった。ひたすら、外部から電話する時は、赤電話で十円玉を入れて掛けるものだし、受ける方も大体は一家に一台しかない黒電話で受けるしかない。

 受け取るのも、頑固おやじや、耄碌した年寄りだったりして、全然容量を得ないことも多かった。彼女は、ボーイフレンドのひとりと連絡を取りたがっていた。そして、彼氏の家に、いきなり女性が電話したら、断られる可能性が大きいと踏んでいたらしい。

 そこで、まずは男性の私に電話をかけさせて、うまいこと、目的のボーイフレンドが出たら、そこからは私が代わるわ、ということであった。まぁ、うまいこと私はこのちょっと年増のアンノン族に、メッセンジャーボーイにされてしまったわけである。

 上には上がいる。(笑)

<72>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<69>08/15 奈良駅

<68>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<69>1972/08/15 奈良駅 

 この日は奈良市内見物と洒落込んだ。と言っても、時間帯は午後からだっただろうし、ヒッチハイクが主な移動手段ゆえ、思ったようなコースを取れるわけではない。その時その時で、思いついた時、あるいはヒッチの運転者の好意に甘えて移動するだけである。

 奈良で覚えているのは、奈良公園。鹿がたくさんいて、かなり長時間、鹿たちとエサをやりながら、戯れていた。ここの公園だったかどうか忘れたが、フーテンの小汚い恰好で公演に長時間いると、親切なオジサンが声をかけて来たりする。

 親切そうで、やさしそうなのであるが、何か仕事を紹介しようか、なんて近づいて来るが、安易にその人について行ってはいけないことが、旅も二か月ほど過ぎると分かってくる。大体が、まともな話ではない。

 人の話によれば、当時、日本は高度成長時代に突入していて、労働力不足が騒がれていた。都市部もそうだっただろうが、地方や、辺境地域でも、同じ状況だったらしい。私に警告してくれた人が言うには、そういう話に乗ると、最初はうまい話しだが、どこかの炭鉱の「たこ部屋」などに監禁され、長期間にわたって、過重労働をさせられるとのことである。クワバラ、クワバラ。

 この後、ヒッチハイクの運ちゃんに誘われて、天理市のあの大きな建物の前を通った。大学だったのか、病院だったのか、判然としないところがあるが、あの特徴的な一種異様な建物の印象は今でも脳裏に焼き付いている。

 後年、ラジニーシ郷として、日本のOSHOコミューンの模索が始まった時、リーダーのひとりナルタンが、日本における宗教都市の先例として、この天理市のことを上げていたことがある。私はあそこを通ったことで、即座にそのイメージが湧いたが、逆にそのことが、逆効果を生んでいたかもしれない。

 いずれにせよ、当時18才の私は、神社仏閣を回るのは老年になってからでいいだろう、という読みで、この時、あまり奈良文化圏を積極的に回ったりはしなかった。いずれ、この生涯で、そういう機会もやがてやってくるに違いない。

<70>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<68>08/14 マキノスキー場 AWF

<67>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
★★★★★

<68>1972/08/14 マキノスキー場 AWF

 マキノスキー場は、滋賀県、琵琶湖の西北に広がる高原にある。8月14日の真夏になぜにスキー場なのか、と言えば、それはここでいわゆる野外コンサートがあったのだ。AWF。もう明確には思い出せないが、当時流行していた、ウッドストック流のエピゴーネンが沢山開催されていたのである。

 私はこのコンサートを悪次郎から聞いたのであろう。彼もまた私より数日前にこのコンサートに入っていたようだった。現地でうまく再会できたかどうか、今ではよく覚えていない。悪次郎は、私たちの中では、もっとも政治的に先鋭な意見を持っていた若者であったが、また、フォークギターを抱えて、歌を歌ってコンサートなどにも登壇し、作詞作曲もこなす人物だった。

 コンサートもともかくとして、この琵琶湖湖畔には、なぜかかすかに記憶が残る。琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島。その姿が何とも印象的であった。あとから、ここには弁財天が祀られており、日本三大弁財天のひとつであると教えられて、なるほど、と納得した。

 湖畔の若者のバイクにヒッチハイクしたこともあった。琵琶湖の漁業に関係する若者たちは、割と開放的で、茶目っ気がある。気質としては、東北人の私などを笑い飛ばしてしまうような、豪快さを感じたものである。

 ある時、過去世を見るという人が、私と家内は、かつてこの近江地方で暮らしていた、と占ってくれたことがある。残念ながら、私にはリアリティはないが、もしそうだったとしたら、と、ちょっと真面目にこの地方のことを知りたいな、とずっと思ってきたのは間違いない。

<69>につづく

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